豊川海軍工廠のページ
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   学習でわかったこと 2019.5.18
   
アメリカは日本爆撃に凄い努力・研究をしていることが分かった!
   ボーと空を飛んできて爆弾をエイヤ!で落とすのではなく、
   航空写真 ⇒ 紙のデーターにして ⇒ シジオラマ作成 ⇒
   爆撃手に地形を学ばせ ⇒ 綿密な計画の基 ⇒ 出撃している。
   だから、豊川工廠のど真ん中に落下地点が集中している。

  
一機だけ間違えて三河湾上空で落下させ、御津駅(当時は御油駅)
   周辺に落ちて33名が亡くなっている。

    ※ 下の爆撃照準器説明によると、投弾は自動らしいから機器の故障だったのか?

    東京湾から東京方面のどでかい!ジオラマ
    
     右に立つ二人が小さいですからジオラマの凄さが分かります。
   
 ※ 悲しいかな、この頃日本ではバケツでの消化訓練と竹やり訓練をしていた。

    爆撃照準器
    
     こんな凄い照準器があったのだ!

   不思議に思ったこと?
  何故か弾薬(包)は陸軍と海軍では互換性が無かった。資源の無い日本で互換性が無し
  で米国に戦争を挑むなんて・・。米軍は全軍互換性に努めていた。プライドだらけの陸軍・
  海軍に赤紙と白紙で招集されて亡くなったり、負傷した人が哀れに思えた。

   ミニミニ豊川海軍工廠の歴史
  
 1936年 第二A廠建設計画決定(後の豊川海軍工廠)
   
1937年 盧溝橋事件  日中両軍衝突 (銃弾の増産が必要となる。)
   1938年 国家総動員法
   
1939年 12月豊川海軍工廠開廠
   1940年 7・7ミリ機銃製造
   1941年 高射装置製造追加 光学兵器追加 
   1941年
12月 真珠湾攻撃(日米開戦)
   
1942年 7月 我が家は石川県より豊川へ引っ越し(父親の郵便局転勤による。)
   1943年 指揮兵器部追加 
   1944年 機材部新設 
   
1945年 8月14日豊川海軍工廠被爆
   1945年 8月15日 日本無条件降伏(敗
戦)
   (養成講座第3回補足資料を参考にしました。)

   平和公園屋外案内板の音声案内(QRコード有り)&名大内戦争遺跡へ

   B29航跡から考える「総員避難命令」 218.12.19 B29の進路変更確認の遅れか?

   豊川海軍工廠関連HPリンク集 皆様ご活用下さい。   

   
海軍工廠爆撃で被爆した大鳥居(元は市田に有ったが、現在は砥鹿神社に有ります。)

   
豊川海軍工廠平和公園内の紹介  2018.12.19 夕焼けの写真追加

   
渥美半島戦争遺跡見学会

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   慶応学徒(危険を感じたのか引率教員の指示で)空襲直前に引き上げた!
  
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戦前の日本統治範囲図 (親父の残した戦前の地図)   
   
   
諏訪墓地と諏訪神社の被災した狛犬
 
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市内に残る戦争遺跡 

   
佐奈川の旧流路 
 

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