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平和公園地図へ
(下の方に復元工事中の見学会写真、ガイド養成講座での周囲の戦争遺跡写真あり)
豊川平和公園の夕焼け 12月は日没も早い!16時半です。
豊川海軍工廠全体では300ha、工廠エリアは200ha、平和公園は3haです。
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![]() 広い海軍工廠の北の3haを使って建設された。 |
![]() 平和交流館 |
![]() 信管置場土塁上のデッキよりの交流館 |
![]() 工廠時代の土塁位置説明 |
![]() デッキから見た信管置場 (左部分の瓦が工廠時代のもの) |
豊川海軍工廠平和公園プレ見学 2018.5.14
![]() 土塁と排水口 |
![]() 工廠を取り巻く排水口・・この排水口が作られ本野原が工廠用地へ変貌! |
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![]() このパネルに工廠のあんちゃんが紹介されてます。 数少ない工廠の体験絵日記です。 |
![]() 整備された500ポンド爆弾破裂跡 (500ポンド爆弾画像あり) |
![]() 工廠の戦争遺跡案内板。隣の名大内の遺跡紹介です。 |
![]() 第一火薬庫入口 |
![]() 第一火薬庫案内板 |
![]() 工廠北側には土塁で囲われた火薬を扱う所が沢山ありました。 |
![]() 土塁説明板 |
![]() 第三信管置場説明板 |
![]() 土塁上から見た第三信管置場・左側の屋根は工廠時代の物 |
![]() 土塁の登れるように階段がつきました。 |
![]() 土塁の上から見た平和交流館 |
![]() 防空壕案内板 ほとんど防空効果の無い感じです。逆にこの中で潰されたり、 入り口を塞がれて窒息して亡くなった方も多かったそうです。 |
![]() 蛸壺のような防空壕 幹部は1トン爆弾に耐えられる防空壕が有った! 1.5m掘れば地下水が湧き出したので、深さは1m位だったと聞く。 |
豊川海軍工廠平和公園の工事中を見学しました 学芸員の方に案内いただきました。
2018年6月9日に開園します。
![]() 防空壕跡(メチャ小さな壕だったようです) |
![]() 信管倉庫入口(爆発に備えて土塁で囲まれてます) |
信管倉庫(開園に向けて修復中!)
![]() 修復中の信管倉庫 |
![]() 左の修復中から信管置場が完成の状態へ 5/16見学 |
![]() 信管置場通路(70年以上前の建物ですがよく残ってます。) |
![]() 修復中から比べると、綺麗になりました。 5/16 |
500ポンド爆弾の破裂跡
![]() 最近の爆弾と比べたら弱かった。爆発跡も小さかった。 |
![]() 500ポンド爆弾説明板と弾薬庫の換気口 |
第一火薬庫
![]() 弾薬庫入口 |
![]() 弾薬庫内(この部屋は70年前の姿がよく残っていた。 |
![]() 壁面は板で囲まれていて、温湿度管理が徹底していた様です。 |
![]() 床もしっかり残ってました。 |
![]() 展示用に修復された弾薬庫 5/16 |
![]() 現状保存の弾薬庫(二重構造の壁が分かるようになっている。) |
2月9日金曜日
![]() 市役所前での事前説明 |
![]() 市役所近くに有る海軍区画標 |
![]() 桜トンネルを歩き工廠神社跡へ |
現在、工廠神社跡には平和の像が有ります。
![]() 平和の像(工廠神社の跡に建っている) |
![]() 平和の像の由来 |
![]() 金沢から贈られた松の説明板 |
工廠正門は現在日本車両の正門となって残っている。 工廠正門地図へ
![]() 欅の並木は工廠時代からのもの 門の外観は綺麗になっているが、工廠正門の面影を残している。 |
![]() 正門跡にある説明板の写真(米軍撮影爆撃前の工廠写真) 何ヶ月も前に、こんな綺麗な写真が撮られていてはな〜〜!! |
海軍工廠死者供養塔 供養塔地図へ
![]() 豊川稲荷裏に建つ慰霊塔(私の生まれた年に建設されている) 豊川小学校桜木分校時代にはこの慰霊碑を見ながら通っていた。 |
![]() 全国からの方が亡くなっている。 |
豊川海軍工廠遺跡めぐり推奨(私個人のです)コース
平和公園 P ⇒ 名大管理地(門前から眺める程度) ⇒ 旧工廠から変貌を遂げた工場群 ⇒ 長栄寺 ⇒ 諏訪神社
⇒ 大鳥居跡地(石碑あり) ⇒ 諏訪墓地 ⇒ 平和の像 ⇒ 工廠正門跡 ⇒ 豊川市役所 P
⇒ 慰霊碑(豊川稲荷西側) ⇒ 一宮砥鹿神社西大鳥居(少し離れています。) P
※ 駐車場の無い場所も有りますので、車で行かれる場合は自己責任で願います。
あとがき
私がこの世に生を受ける1年前の昭和20年8月7日に豊川海軍工廠の悲劇が起こった。
私の小学生から中学生時代には工廠の爆撃された建物が沢山残っていた。近辺にも壊れた工場が放棄されていた。
動いていない国鉄の西豊川駅にも駅員が居たような記憶がある。
幼少時代魚取りをしていた佐奈川も、この工廠の産物だった。
工廠以前の佐奈川は1.5間程の小川で、雨の度に野水となって周囲を襲っていたと聞く。
豊川を田舎から町に変貌させた海軍工廠は、8月7日の爆撃で壊滅し、8月15日に日本は連合国に無条件降伏した。
降伏が少し早ければと誰もが思うが、これも歴史の1ページとなってしまった
この過ちをしっかり見つめて伝えて行くのが、現在を生きる我々の使命かと思いつつ・・・。
2018.2.9