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清水文雄工廠長は工廠を捨てて逃げたのか?

 平和公園に訪れる工廠体験者は一応に「工廠長は逃げた」とお話になります。
 ほとんどの皆さんが同じ思いを持っているので、真実はどこに有るのか分かる範囲
 で調べています。何か情報をお持ちでしたら豊川海軍工廠平和公園事務所まで
 連絡願います。

 
これまで調べた私の結論

 清水工廠長は爆撃時には司令防空壕に居たようです。色々な記録には壕(頑丈な)に居て指示をしていた。
 避難指示については、そもそも工廠長は避難とか退避はあまり考えていなかったようです。
 退避した場合には、工廠の稼働までに2~3時間もかかってしまうことが頭に有ったようです。
 工廠長の考え方の
基本は色紙(下に表示)の文から読み解くことが出来るように、生産第一だったからです。
 時習館の学徒が7月の警報で北門から避難しようとした時に、工廠長がパッカード(工廠長専用車)で現れて
 「戻れ!」と激を飛ばしたそうです。その時に引率教員が「学徒は警報で退避すると決まっている」と反論したら、
 無視されて現場に戻されたそうです。これを北門事件と記している本もあります。
 工廠爆撃の前には空襲警報が多く出されており、警報に慣れしていたような感もあります。
 ですから、B29が知多半島上空に現れても退避命令など出さずに、爆撃直前に全員の退避命令となり、学徒・行員
 職員・幹部が一斉避難となったので混乱が増大しました。
 爆撃中少し間が有ったようで、工廠長が続木部長に状況調査を命じたので、部長は抜刀して壕を出たそうですが、
 直後に直撃弾を浴びて亡くなっています。
 爆撃後は正門近くに「工廠長位置」の目印を立てさせましたが、すぐに会議ということで幹部を現在の市役所位置に
 有った会議場(被害が無かった)に集めたため、「工廠長位置」から幹部がいなくなり、工廠従業員から「逃げた」と思
 われたのではないだろうか?!が私のまとめです。
 北門事件の時に、学生に対して
「わしはへまはない(ちゃんと避難させる)」と言って説得したそうですが、最後に
 
「大へま」をして2500人以上の方が亡くなられました。
 
工廠の危険を察知して空襲の少し前に学徒を引き上げさせた慶応大学のような学校もありましたから、状況を的確に
 判断する能力は大切と考えます。
 とにかく「平和な世」が一番です。この平和公園で戦争遺産だけでなく、戦争をさせない信念を持つとの大切さを
 学んで欲しいと思います。
 

 清水工廠長の戦後
 
戦後は日本製鋼所の幹部となってます。
 日本製鋼所は1907年に兵器国産化を目的に北海道に設立された
 会社で、戦中には戦艦の主砲素材となる鍛鋼品や防弾鋼板などの
 兵器関連部品を製造していた、軍と共に歩んだ会社です。
 清水工廠長は昭和40年に寿命を全うされています。


 清水工廠長経歴

  
工廠長専用車パッカード 
   
  
この車を見るだけで工廠長の偉さと権威がわかります。
  下の講座でいただいた資料では、このパッカードに乗って
  逃げたとなっています。
  参考写真です。当時の形式は不明です。
  
ただ、パッカードの修理のたために宮内省から部品を調達したとあります
  ので、日本に何台も無かった車だことは確かです。


 豊川海軍工廠の姫百合
 
 語り継ぎボランティア養成で、上記の資料をいただいた。
 
 この「姫百合」で語られている学校は私の母校の前身「新城高女」だったことに
 後日読み返して気づきました。この中で、
突然1台の乗用車が中央道路を東へ
 疾走し始めた。よろめき、傾き、手負いの猪のように突
・・ココは折り曲げで欠如・・
 廠内から守衛が叫んだ。「廠長が逃げる!6万人の部下を捨てて」・・・・

 ・・・と語られている。私は工廠長も当然被爆して亡くなったと思っていたら、昭和40年まで生き延びて
 いた
ことを知り驚いた。
 そこから私の「工廠長は本当に逃げたのか」調査が始まった。中将だから戦犯に問われるか、自刃し
 て亡くなっているかと勝手に思っていたが、技術中将は責任を問われる事も無く寿命を全うされました。
 
 清水工廠長の信念のわかる色紙
 

  生産に挺身し・・
  この文言字から、爆撃前に逃げるように指示する思考をお持ちの方
  では無いように思いました。
  肩書が海軍技術中将となっており、戦線を指揮する軍人ではなく、兵器
  作りを専門とする技術屋さんで、生産こそが工廠の使命だと考えておら
  れたようです。

  慶応大学は生徒への危険を感じ「引き上げさせた!」  

 引き上げさせたのが、引率教員の判断と書いてありますが、戦中の総動員体制の中で凄いことだと思いました。
 塾長小泉信三氏が立派だったのでしょうね。

 

                                      ほご

 学徒は「空襲警報で廠外退避の約束」を反故にした清水工廠長
 これは7月末の空襲警報のことです。

 
 工廠長の生産第一の考え方がよく分かる!
 これも上記の本に掲載されている文です。


 「ああ 豊川女子挺身隊」より

 この本では「敵機が見えなかったら、すきを見て、みんな南方へ逃げろ・・・・・私達に退避命令を出した。」とあります。
 この一文を読むと、頑丈な防空壕に避難していて、空襲が止んだ後「南方へ退避した」となり、指揮命令系統が破壊され
 寸断している中での防空壕内の幹部への退避命令は、姫百合で語る「廠長が逃げる!」と符号しているのか?


  右の頁では
  私たちに「退避命令を出した」書いてあり
  ます。この文言をどう読み解くのか?
  本部の壕に残った人に出した命令にしか
  読み取れない。
  2500人以上が亡くなった現実を考えると
  全く状況が分かってなかったのでは? 
 
 


 「豊川海軍工廠の記録」では

 1トン爆弾にも耐える指揮防空壕に逃げ込んだ工廠幹部は、爆撃の跡で(どの位の時間後かわかりませんが)現在の豊川市役所に有った
 会議室に集まったようです。経過はわかりませんが爆撃後の大混乱の中で、場所を変えて会議を行ったようですので、悲惨な状況に残った
 工廠従業員は「逃げた」と理解したのかも知れません。従業員には蛸壺のような防空壕で、幹部は1トン爆弾に耐えられる防空壕が用意され
 ていた。平和公園に残る防空壕がどんな簡易な物か、人命を軽視して生産に邁進させた「帝国日本」の在り方を問い続けてゆく必要がある
 のでは無いでしょうか?薩長主体の政治から軍閥の政治へと変遷し、無謀な太平洋戦争へと突き進んだことに、一人ひとりの日本人の責任
 と、政治の持つ怖さを感じて欲しいと思います。


 この本では工廠長について好意的に書かれ
 ていました。ただ、工廠長専用車の修理が
 宮内省からの物品で修理されたとは!驚!

 爆撃後工廠長の指示で「工廠長位置」
 知らせる旗を立てたとあります。逃げて
 いないようです。 

  日独伊軍事同盟後にドイツよりの13粍機銃
 砲弾を豊川海軍工廠で手作業で作ったと
 あります。非能率的だったのです。


 清水工廠長の頭には、全員退避とかの文言は無く、「生産継続」のみでは無かっただろうか!?
 当時の「一億総玉砕」のスローガンの元で、思考停止の状況に陥ったとしても、沢山の命がこの爆撃で失われ、
 総責任者の工廠長はどのように考えて戦後を生きながらえたのか?八七会の13回忌に参列して、参列者から
 罵声を浴びせられたそうですが、亡くなった親族が生きながらえた工廠長に抱く怨念をどう受け止めたのか?
 戦後書かれた清水工廠長の資料をボランティア養成講座でいただいたが、工廠の能率化にどう私は寄与した
 かの文言だけのように読み取れた。

 
 ※ 清水工廠長の肩書「技術中将」とは 

   
 技術中将を調べインターネットを検索していたら、アマゾンで 
  この本をめっけた!
 技術中将とは「軍人でありながら、技術者として軍に貢献した中将」
 という、いわば敬意をこめた意味合いから用いている。P46
  (注2)では、本書でいうテクノクラートとは秋山のように土木を中心
 に航空科学、電信技術、燃料工学等幅広い技術的専門知識によ
 って、陸軍のみならず、戦時下のわが国の政策立案に参画し、実
 施に関与した軍事官僚という意味で用いている。
 としていおり、清水工廠長も兵器(機銃関係)の技術者として海軍に  
 貢献していた人物で、戦争遂行の軍人ではなく、技術分野で支えて
 いた。

 この本には米国と日本の土木技術の差についても書かれており、
 米国での物量と日本では比較にならない差が有ったと記されてい
 る。経済力で日本は25分の1位だったと別の資料に載っていた。
 
 


 皆さんも個々で調べていただきたいと思います。