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 豊川市内に残る戦争遺跡 
     

 豊川市内には工廠被爆関連遺跡が多数残っています。平和公園だけでなく周辺の遺跡も見学して下さい。

                                                             
 我が家の近くを流れる川幅約50mの佐奈川。50年前に読んだ宝飯郡史では戦前の佐奈川は
 「川幅1.5間(2.7m)」の小川となっていた。
 この川の「改修ナクシテ、海軍工廠ナシ」を信条に、河川改修の経緯を調べ回りました。
 なかなか資料にぶち当たりません。
 今日(7/6)あらためて「豊川市史」を読んでいたら、載っていました佐奈川の事が。
 豊川市史 第八巻 現代資料編に。ここには「暴れ"佐奈川"遂に屈服」(P615)と出ています。
 工廠工事と同時に河川改修が県の手により始まり、周囲の区画整理も始まっていました。
 泣く子も黙る海軍の力?で「一気呵成」に工事スタート。海岸部から改修が始まったそうです。
 佐奈川は千両の山から始まり、豊川、牛久保と流れ桜町辺で川が消える驚くような川だったと書い
 てあります。大雨が降れば豊川、牛久保、小坂井に大被害を与えていた暴れ川でした。
 一宮の帯川と土々(ドド)川を佐奈川につないで工事が完了したのは戦後の昭和26年でした。
 旧佐奈川のわかる戦前の地図へリンク(佐奈川には色付けしてありません)。

 7/13豊川図書館で年代別の国土地理院地図を見ていて「発見しました!」。海軍工廠の排水は全て
 
白川だったと!当初の工廠は佐奈川から離れており、佐奈川と接していませんでした。工廠周囲の濠
 は白川へと繋がっており、水洗便所の始末は糞川と揶揄された白川に流れていました。
 昭和8年竣工の音羽川改修で西古瀬川と白川は音羽川と繋がり、工廠の排水は三河湾へ流すことが
 可能となっていました。佐奈川改修ナクシテ!は私の勘違いでした。しかし、調べたお陰で色々知ること
 が出来ました。「音羽川の改修ナクシテ、豊川海軍工廠ナシ」に変更します。

 
戦争の傷跡を残す「市役所前の松」  豊川市役所地図へ


 豊川市役所も豊川海軍工廠の敷地内に建っている。
 市役所前の松にも松ヤニを採取した跡が今でも残って
 いる。 資源が無いからと松脂から油を取ろうと考えた
 「傷跡」が痛々しい! 

 皆さん!
 市役所前の松を見学に行って下さい。

 「大鳥居建立地前」の真新しい石碑発見!2018.5.8  大鳥居旧位置の地図へ

 
 御油の追分まで一里
 次は三橋の一里塚となります。
 
 爆弾も落ちてたんですか。
 鳥居の傷は機銃かと思ってた。

 
 歩いてみなきゃわからない。
 姫街道を歩いてみたら、真新しい石碑を
 見つけた!
 「大鳥居建立前」とある。この碑の前に
 大鳥居は有ったのだ!
 上の写真が跡地の今です。

 
 工廠爆撃で被災した市田の大鳥居  現在は砥鹿神社西大鳥居となっています。砥鹿神社地図へ


  傷跡は工廠爆撃の跡です。中ほどの貫は壊れたので修復して
 有ります。折れた残りは左下の写真です。
                                    
 50年近く前から懇意にさせていただいている鳥居です!      
 この鳥居を最初に持って来たのは理由がある。           
 この鳥居は昭和31年までは豊川海軍工廠近くの
 姫街道沿いにあり、海軍工廠の爆撃で被弾して
 一部が損壊して、昭和31年まで姫街道沿いに有った
 が、姫街道の拡幅と同時に一宮砥鹿神社の西大鳥居
 へと移転したもの。
 数少ない海軍工廠爆撃の生き証人というわけである。
 この鳥居は貴重な鳥居で、柱には沢山の謂れが彫られ
 ており、石の提供人がわかり尚且つ東三河の世話人の
 名前が彫られている。                     
 江戸末期天保時代に本宮山遥拝所として、新城方面へ
 の分技点に立って立っており、平和な時代を過ごしていた   
 が太平洋戦争がこの鳥居を傷つけてしまった。
 興味のある方はこの鳥居を調べて下さい。この地方の庄
 屋さんとか旅籠の主人の名前が彫ってあります。 
 
 
 
  5月29日の東愛知新聞です。  
  砥鹿神社西の鳥居が「工廠の名残」として掲載されました。
 
  被災して貫の部分は落下したので、修理した姿が
  左の写真で、元の貫の一部は市田の元の場所に
  本宮山遥拝所の石碑として残ってます。
  ここまで紹介して欲しかったと思います。
    
  
落下した貫で作られた石碑
  
 
宝飯郡史の砥鹿神社遥拝所の説明「左右ノ堤に桜樹数百本繁茂とあり
  工廠開設以前ですから新城へと抜ける道が素晴らしいと紹介されてます。

 
 爆撃で亡くなられた方を埋葬した地  慰霊碑が林立している。御遺体は昭和26年に荼毘に付された。
 
 諏訪墓地地図へ
 


 墓石、慰霊碑が並んでいます。

  八七会による入口案内板

 個人のお墓もあります。

 立命館大学戦没者慰霊碑

  豊橋商業の慰霊碑

 後ろの建物は県営住宅

 諏訪墓地 

  色々な石碑が建つ

  墓地の隣には住宅の建設が進む

 

 


 
                       
 諏訪墓地には個人のお墓、工廠職
 員学徒動員の供養塔などが有ります。
 爆撃により亡くなった無念さを感じる
 墓地です。
 名鉄豊川線諏訪町駅近く。

 最後の講座「工廠遺跡などの見学」です。  2月9日金曜日


 市役所前での事前説明 

 市役所近くに有る海軍区画標 

 桜トンネルを歩き工廠神社跡へ 

 現在、工廠神社跡には平和の像が有ります。


  平和の像(工廠神社の跡に建っている)

 平和の像の由来

 金沢から贈られた松の説明板

 工廠正門は現在日本車両の正門となって残っている。 工廠正門地図へ


 欅の並木は工廠時代からのもの 
 門の外観は綺麗になっているが、工廠正門の面影を残している。 

 正門跡にある説明板の写真(米軍撮影爆撃前の工廠写真)
 何ヶ月も前に、こんな綺麗な写真が撮られていてはな〜〜!! 

 海軍工廠死者供養塔 供養塔地図へ


 豊川稲荷裏に建つ慰霊塔(私の生まれた年に建設されている) 
 豊川小学校桜木分校時代にはこの慰霊碑を見ながら通っていた。

 全国からの方が亡くなっている。 

 
 長栄寺の被爆遺産(諏訪神社隣) 長栄寺地図へ


  長栄寺内の被爆案内

 自然石の観音様も爆撃で欠けた!

 西国33観音も哀れなお姿に 


 豊川海軍工廠遺跡めぐり推奨(私個人のです)コース

  平和公園 P ⇒  名大管理地(門前から眺める程度) ⇒  旧工廠から変貌を遂げた工場群  ⇒   長栄寺  ⇒  諏訪神社
  ⇒  大鳥居跡地(石碑あり)  ⇒   諏訪墓地   ⇒   平和の像   ⇒   工廠正門跡   ⇒   豊川市役所 P
  ⇒  慰霊碑(豊川稲荷西側)  ⇒  一宮砥鹿神社西大鳥居(少し離れています。) P
  
  ※  駐車場の無い場所も有りますので、車で行かれる場合は自己責任で願います。

 あとがき 

 私がこの世に生を受ける1年前の昭和20年8月7日に豊川海軍工廠の悲劇が起こった。
 私の小学生から中学生時代には工廠の爆撃された建物が沢山残っていた。近辺にも壊れた工場が放棄されていた。
 動いていない国鉄の西豊川駅にも駅員が居たような記憶がある。
 幼少時代魚取りをしていた佐奈川も、この工廠の産物だった。
 工廠以前の佐奈川は1.5間程の小川で、雨の度に野水となって周囲を襲っていたと聞く。
 豊川を田舎から町に変貌させた海軍工廠は、8月7日の爆撃で壊滅し、8月15日に日本は連合国に無条件降伏した。
 降伏が少し早ければと誰もが思うが、これも歴史の1ページとなってしまった
 この過ちをしっかり見つめて伝えて行くのが、現在を生きる我々の使命かと思いつつ・・・。
 2018.2.9

太平洋戦争前の日本の権益範図


 朝鮮半島、台湾、樺太半分も日本の範図に入っていた。
 豊川工廠はこの権益を守るためか、太平洋戦争を見据えていたのか?
 明治生まれの父が残しておいた範図より。