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   姫街道市田の大鳥居物語

  鳥居建立の世話人(赤坂の方)がわかりました! 2019.7.9
  鳥居に彫られた「赤坂世話方」伊藤荘左衛門と清水市三郎さんは赤坂脇本陣当主、近藤伊右衛門は鯉屋の当主。
  鯉屋は先日から公開された旅籠の旧名です。鯉屋は旅籠案内ボラの資料に砥鹿神社西鳥居の写真とともに載って
  ました。鯉屋さんは赤坂宿でも代表をするような旅籠だったのです。
  残りの松平弥一右衛門さんは慶応元年の赤坂宿街並図には見当たりませんが、現在も赤坂に松平姓の方が住ん
  で見えます。
  御油の鈴木さんは御油で一軒だけの本陣の鈴木さんようです。 

    (豊川海軍工廠爆撃の生き証人として)

  この鳥居に出会ったのは、豊橋で借りた「宝飯郡史」だった。40年以上前になります。
 その頃、私は「姫街道の自然と史跡を守る会」の豊川の代表として、静岡県浜松市、三ケ日町、気賀町、豊田町と一緒に
 姫街道を勉強し、本坂道の復元にも参加していた。姫街道を御油から見附まで、今は亡き村瀬さんと一泊二日で歩んだり
 もしました。
 姫街道の調査で一番印象に残ったのがこの鳥居でした。みなさんも、この鳥居の語ることを感じてほしいなと思います。
 興味があれば見に行って、鳥居に彫り込んである人名調査をしてただければと思います。
 この鳥居の凄いのは、建てた人、世話人、神主、石工、和歌などの説明文がビッシリあることと、海軍工廠の空襲の生き
 証人だということ。海軍工廠建設で消えてしまったが、姫街道からの分岐する新城道の景色が素晴らしかったことを思い
 描いていただければ嬉しく思います。

 宝飯郡誌が語る大鳥居
 天保13年当国岡崎藩長尾応次郎、当地ノ風景ニ富メルヲ以テ□ニ石造ノ大鳥居ヲ建立ス。高サ三間二尺、横五間一尺、
 当国第一ノ大鳥居ナリ。額ハ長六尺、巾三尺五寸五分、鉄造、文字ハ□ニテ目方三十八貫六百目。敷地82坪、敷地ヨリ
 見通ス道路八百十五間巾三間、左右ニ桜樹数百本繁茂ス。以下略
 とあるように、長尾応次郎興達が感嘆した桜並木が、姫街道から新城への街道にあったのです。

 建っていた場所 
 豊川市市田町一里
山  ⇒  空襲で損壊、姫街道拡幅により ⇒ 砥鹿神社西大鳥居となる
 元の場所(姫街道沿い)には、損壊して落ちた貫石の一部を使って「本宮山遥拝所」として残っています。 


 砥鹿神社西参道の大鳥居(江戸天保13年に市田村に建立、戦後ここへ移転)
 天保年間には幕末の維新の志士が多く生まれている。
 太平洋には外国の船が散見されるようになり、国防が必要となり
 岡崎藩の長尾氏が田原藩へ砲術の勉強に行っている。

  これも長尾応次郎さんが面倒を見て建てた大鳥居!
 この鳥居は東海道御油の豊川稲荷遥拝所に有ったもの。嘉永6年建立
 この年にペリーが来航し、翌年の嘉永7年には日米和親条約が締結
 された。

 下の絵が鳥居の石を提供した長尾応次郎興重(興達)さん。
 この人は、岡崎藩500石の勘定奉行、砲術師範、お金貸し借りの取持ちをしていた方。

 
 三河武士のやかた資料より
 寄進者の顔がわかる 

 鳥居は少ない。 

 諏訪神社隣りの鳥居の有った所に
 建つ「本宮山遥拝所」石碑 

  


 海軍工廠の空爆前の元気な頃です。

  空爆後の可哀想な姿です。倒れなかったんだねー。

 砥鹿神社への移転工事中(写真集より)

 2014.7.29現在のお姿です。 中の石が落ちたので新しくなっている。

 機銃掃射の跡か、爆撃の破片で傷ついたか
 海軍工廠爆撃の生き証人

  この鋳物師、中尾与惣治が鳥居の世話役金屋の中尾与総次さん
 三州釜の中尾十郎さんの家系とは別。(写真は豊川市史より)
 

 この太田専助さんが世話人で、弘化は天保のすぐ後の年号
    (真柴屋)
 組頭だったのですね。すぐ後に庄屋になってますが。

 新城図書館にて調べました。

 和歌も彫られてます
 
 大宮之石乃御門能二柱
 
オオミヤノ  イシノ ミカド  ノ フタハシラ
 立流袮賀比者
 
タツル  ネガイ ハ
 神曽宇久良武
 
 カミゾ  ウク  ラム
  都筑大成作
(※最下段に紹介文)



   刻銘全文は下段で(一部まとめあり)

ずーと、長尾応次郎を、インターネットをやたら調べていたら「武士のやかた家康館」で長尾家の特別展をやったと出て来ました。
すぐにこの本を買いに行きました。この本のお陰で、なんでこんなお金がかかる鳥居が寄付できたのか、なんで豊川の地に建てたのかがわかりました。砲術勉強に田原藩へ行く途中で姫街道を通っていたらしい。そして、市田からの本宮山の眺めと姫街道から分技して本野が原へ行くと街道の桜並木が素晴らしくて建てたらしい。桜並木の素晴らしかった道も、海軍工廠建設で寸断され面影はもう無い。
しかし、電話も無い、自動車も無いこの時代に、岡崎で加工して、沢山の人に協力してもらい、その名前を彫って・・・・
・・・・凄いなー江戸時代の日本人は!!!! 


 上記冊子は岡崎市三河武士のやかた発行
 「岡崎藩長尾家と西洋砲術」特別展図録
 で平成7年に開催されたものです。



 左の本に大鳥居が紹介されています。
 この本で初めて、豊川稲荷本殿の前にも
 長尾さんが取り持った鳥居があるのを知り
 ました。嘉永6年建立です。凄い人だ。
 

 砥鹿神社へ移築前の地つき祭の人達
 移転でも沢山の人が協力したのだ。
 ボランティア連協で鳥居の見学をした時に
 砥鹿神社でいただいた資料より
  

鳥居刻銘

 【鳥居刻銘】
 (右柱正面)
 奉献本宮正一位砥鹿大明神
 (右柱左横) 
 神□倭歌  都筑大成 
 大宮之石乃御門能二柱立流祢賀比者神曽宇久良武 
             岡崎   石大工石原正七徳褒
                   中野之照書
 (右柱裏)                   
 岡崎藩長尾応次郎興重再拝稽首
       幹事 小玉輪三郎親常 
       岡崎 竹内為次郎照雅
 (左柱表)
 天保七年丙申吾友長尾興重将献石鶏栖於
 砥鹿神社以 ・・・・難しい字が多くてワープロでは出ません。   
   砥鹿神社の神主草鹿砥宣輝さんと長尾さんは友達だった。 
   だから、みんなに協力してもらって鳥居を建てた
    ・・・ようなことが書いてあるらしい。
                      辻□行成謹誌
                      阿佐美種徳敬書 
 (左柱裏)
 神主    草鹿砥肥前守宣輝
 権神主  草鹿砥近江守宣隆
 禰宜   本宮山附 戸加里主税永政
              戸加里主馬永住
              世話方 当所 上島長門貞義
                      五給 庄屋
                      柳瀬 三右衛門
                  金屋 中尾与総次
                  新城 大田専助
                  赤坂 松平弥一右衛門
                      伊藤荘左衛門
                      清水市三郎
                      近藤伊右衛門
                  御油 鈴木七太夫
                  当所 柴田勘蔵
               石大工副岡崎 神谷松三郎冨昌
                                       
 ※ 沢山彫ってあります。人名も多いです。この人達を調べる 
   だけでも楽しいと思います。中尾与総次さんは近くの方で 
   すのでちょっびっと調べました。
   大田専助さんはわが母校の地ですのでこちらもちょびっと 
   調べました。
   皆さん姓を名乗ってますので、苗字を許される身分の方で 
   すね。皆さんも「人名探検」に挑戦しませんか?
   但し、現在の鳥居には空襲で欠けた部分も多くて、全ては 
   読み取れません。

 
 



(※倭歌作者都筑大成は下段で紹介)
 大宮の石の御門の二柱
 オオミヤノイシノミカドノフタハシラ
 立つる願は神ぞ受くらむ
 タツルネガイハカミゾウクラム




 天保7年に長尾さんが石を寄付した
 ・・・・

 天保年間には大飢饉が起き、加茂(豊田)では一揆も
 起き、岡崎藩から鎮圧隊が派遣されています。
 そのような社会情勢を危惧して、本宮山が拝めて桜並
 木も美しかった、市田村一里山へ遥拝所を建てて平安
 を祈ったように感じます。ちなみに賀茂一揆で捕縛され
 た4名は赤坂代官所に引き取られています。
※ 砥鹿神社宮司(当時は世襲制だった)
※ 宣輝の嫡子(国学者で応次郎と親交があった






※ 中尾与総次は豊川北金屋の鋳物師
※ 大田専助は新城の真柴屋という屋号で組頭

 
※ 伊藤荘左衛門は脇本陣当主
※ 清水市三郎は脇本陣当主
※ 近藤伊右衛門は鯉屋当主

 都筑大成(つづきおおなり)について(岡崎市史より)

 歌人。桂園派。文政元年に香川景樹に入門。門人(子弟)に近藤瓶城などあり。
 新編岡崎市史20(総集編) 岡崎藩士、幕末期の桂園派の歌人。都筑家は永禄12年
(1569)より、本多忠勝家の付人となる。本家の惣左衛家は本多家が15万石時代は
 6000石、岡崎藩主には5万石時代は3500〜3000石の首席家老であった。
 大成は分家の500石取り都筑家である。杉浦藤助直増の子として出生、幼名を健次郎、
 長じて庄太郎・藤(東)一郎と称し、都筑家の養子となる。文化6年(1809)10月
 24日に養父孰成の家督を継いだ。文政4年(1821)正月15日御使番、同6年正月
 15日旗奉行、者頭役の重職となる。天保7年(1836)の加茂一揆には指揮官として
 出征、その後町奉行兼郡奉行のかたわら、「桜園」と号して桂園門下の歌人として活躍した。
 文久元年(1861)5月3日没、法名勇昌院桂資大成居士。明大寺町竜海院に墓塔がある。
 岡崎市名誉市民(元衆議院議員)手嶋鍬司の母トシ子は大成の娘である。


 草鹿砥宣隆

 砥鹿神社の神主は、代々草鹿砥家が世襲するしきたりとなっていた。国学者として著名な草鹿砥宣隆は、砥鹿神社の神主
 草鹿砥宣輝の嫡子として文政元年(1818年)に生まれた。
 三河国一宮砥神社 その歴史とやかりの品々展  桜ヶ丘ミュウージアム P18より


 京都にある草鹿砥宣隆の墓

 草鹿砥宣隆紹介文
 

 鳥居の刻銘紹介(いずれも上記冊子より)
  世話方に色々な名前がある。


 豊川稲荷本殿前に建つ長尾応次郎が関係した大鳥居


 嘉永6年はペルリ初めて浦賀に来た年 
 翌年再度来て、開港をせまった。

 右に長尾応次郎興達が小さく彫ってあります。


 市田の大鳥居や豊川稲荷の鳥居を制作した石原さんの鳥居は豊橋市牛川町熊野神社にもあります。
 岡崎から豊橋とか豊川へ運搬するも、今考えると大変なようですが、ルートとか方法は完成していた
 ようです。石原さんは明治期に石工を廃業しているようです。


 この鳥居の関係で資料がありましたらご連絡下さい。 k-nomura@tg.commufa.jp まで。