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学校の入学説明会で
昔、手話を始めたばかりの頃、東三河には手話が堪能な人はいなかった。集会があれば浜松の坂本さんが愛知まで手話通訳
に来ていた。坂本さんは同じ職場のろう者から手話を学んだと話していた。私はろうあ者とは全く関係の無い立場だった。
ただ、私たちのユースホステルグループにろう協会の会長さんが来て「手話を学んで」の一言から、私の手話学習は始まった。
それが今まで続いたのは、ろう者の悲惨な環境(特にろう学校と家庭の)をなんとかならないもんかと思ったのがきっかけだった。
指文字をまず覚え。それが通じないことを知り、次第にろう者との交流へとのめり込んで行った。
今では差別語になっているが「つんぼ桟敷」そのものの時代だった。聞こえる友人もなく、周囲に理解してくれる人もなく。特に家族が
わかってくれなかった。時には、ろう者同士の結婚に反対する両親の説得も頼まれた。説得に行き、逆に家庭の問題に口を出すな
とこっぴどく叱られた。まだまだろう者同士の結婚は困難な時代だった。
学校の入学説明会の通訳をやって、通訳がいなければ多分全くわからずに「つんぼ桟敷」か、簡単な筆談で終りだったろう。
個人懇談では子供の状況を色々聞かれた。質問者の意図を正確に母親に伝え、母親から的確な返事を引き出すのが通訳の責任だ。
家庭の雰囲気、家族関係の雰囲気も伝えることによって、入学後の子供への接し方もより良いものになると考えている。だから、時に
は先生の質問に補足する形で聞いたりもした。
通訳は単に言葉を伝えるだけでなく、その場のニュアンス、話し手のニュアンスも伝えなければならない。送り手と受け手の共同作業
だと思っている。最近は「単に言葉を伝えるだけ」の通訳が多くなった気がする。全通研の初代運営委員長の伊東先生は、絵を描くよう
な手話(通訳)をしていた。手話通訳は、依頼者の人生を一時共有することになる。自分ひとりの人生経験に、ろう者の人生をプラスして
生きていることになる。大変なやり甲斐と達成感と難しさを常に感じている。人生に挑戦し、人生を肯定し、人生を膨らませたい人には
最適な仕事と思う。広い意見を持ち、深く考える人に手話通訳となって活躍してほしいものだ。
手話通訳士って?
手話通訳士は国家試験ではありません。国家試験に準ずる試験で、合格しても食べて行くことの出来る資格ではありません。
時々、先進市からの「手話通訳士資格者募集」がありますが、まだまだ食べれる資格ではありません。
県・市町村での手話通訳者派遣事業に登録して細々と活動するか、パートか嘱託で市役所等で働いている人がほとんどです。
正規職員はチョッピリという資格です。けど、その様な資格試験に挑戦する人が毎年1000人程いて、合格率20%です。
国立障害者リハビリテーション学院手話通訳学科では卒業までに2000時間の勉強をしているが、30名定員の中で合格する人(現役)
は6人(平成23年度)で、手話サークル会員が合格するには至難の技と言えます。
各地で手話を学んで、合格者する人の手話経験平均年数は10年を超えており、超難関の試験なのです。
@ 男女比 ⇒ 女性が96%を超え男性は希少種(貴重品)と化している。
A 平均年齢 ⇒ 49.5歳 20〜30代が極端に少ない年齢構成となっている。
私は、手話通訳士最初の試験で落ち、二度目は入院中でパスし、三回目の試験で合格したが、大阪までの交通費や宿泊費等で合格
するまでに20万円程かかったと思う。高い試験だった。
私の学んだ頃は、試験も手話講習会もサークルなかった。
私は、手話を学び始めた頃から「手話通訳」を頼まれた。手話はまだ出来なかったが頼まれても断れなかった。
周りに誰も手話の出来る聴者(健聴者とも言う)がいなかったからだ。その頃から、「聴者は皆通訳」と思うようになった
(ろう学校の先生も、ろう者の家族も手話が出来ないことには驚いたが)。 通訳の場面で、聞こえない人がいるのであれば
「最善を尽くして、わかってもらう努力をする」これが自然なことではないか。手話が出来る、出来ないなど関係なく。
その後、手話奉仕員派遣事業が始まり、派遣事業の為に登録試験が始まった。
現在ではレベル試験、県・市への登録を目指しての全国統一試験、厚生労働大臣公認の手話通訳士試験とまちまちだ。
手話通訳の職務についての考えも、個々バラバラとなってしまった。幅広く取り組む人もいれば、狭いく考える人も増えている。
改めて、手話通訳の歴史から問い直し、手話通訳とは何かを考えたい。
※ 今後資料を集めまとめたい。
手話通訳の心得・役割
伊東雋祐 (初代全国手話通訳問題研究会運営委員長著 「手話通訳」より)
手話通訳の心得
@ すべての人間がひとしく平等の権利を有し、人間として尊重し合う精神からはじまるとの観点をおさえること。
A 通訳活動は、ろうあ者の権利を共に守り、その暮らしや文化の向上とかかわりあってとりくむ。
B 依頼する者と通訳活動を行う者の相互信頼関係を確立する努力が非常に大切。
(信頼関係のないところによい通訳は成り立たない)
C 社会福祉の基礎知識を学習していくこと。
D 手話の学習
E 通訳組織と研究活動
上記の内容は、本の内容の一部ですので、伊東先生(元京都ろう学校の先生だったから)の真意を理解するためには、
是非、伊東先生の書かれた「手話通訳」を読んでいただきたいと思います。
川根薫 (新しい聴覚障害者像を求めてより)
誰もがいきいきと、その持つ力を発揮し主体的に社会に参加し、暮せるそんな地域作りを、ろうあ者個々(集団)の課題解決
を通しながら目指し、安心して暮せる社会作りを担う仕事が手話通訳だと思っている。
飯塚千代 (手話への招待より)
通訳者とは、ろうあ者の立場にたち、共に歩むもの。
ろうあセンターとか聴覚障害者センターとか名称は色々ありますが、全国ではどうなっているか?
昭和27年 熊本ろうあ会館建設
昭和31年 京都にろうあ者更生施設設置
昭和38年 福岡ろうあ会館完成
昭和44年 京都ろうあ会館開館
昭和57年 京都いこいの村オープン
昭和58年 熊本県聴覚障害者総合福祉センター開設
全国で聴覚障害者情報提供施設は沢山あります。愛知県はまだです。なぜですか?
手話関連の歴史
昭和25年 「手話のできる福祉司設置」を全日本ろうあ連盟はスローガンとして掲げた。
昭和38年 京都みみずくの会結成(日本初の手話サークル)
昭和39年 豊橋で手話(てばなし)友の会誕生
昭和40年 東京で蛇の目寿司事件発生(ろうあ者が寿司屋で客と喧嘩になり、仲裁に入った店主が突き飛ばされて亡くなった)
昭和41年 全国青年研究討論集会始まる(第一回差別青研)
昭和43年 第17回全国ろうあ者大会(お願い運動から権利要求の運動へ)
〃 はぐるまの会誕生(岡崎)
昭和45年 手話奉仕員養成事業開始
〃 京都に専任手話通訳設置
〃 松島君解雇撤回闘争(浜松)
昭和48年 職業安定所に手話協力員設置
〃 手話奉仕員設置事業の開始(豊川手話を学ぶ会、豊橋手話友の会誕生)
〃 東海手話サークル連絡会結成
昭和49年 全国手話通訳問題研究会結成(青森)
昭和50年 やじろべえ(豊川)、クローバーの会(豊橋)、竹とんぼ(一宮)、刈谷手話サークル誕生
昭和51年 手話奉仕員派遣事業の開始
昭和54年 民法11条改正(施行昭和55年)
昭和54年 愛知県手話通訳研究会(全通研愛知支部)設立
昭和56年 つんぼ、おし等不適切用語の法改正
昭和59年 ミニファックスの日常生活用具新規取り入れ
昭和60年 I LOVEパンフ運動開始(120万部の販売目標)
※手話通訳の制度化に向け、「手話通訳制度調査検討報告書」のダイジェスト版
平成元年 手話通訳士試験始まる
手話通訳として活動するには?
通常、手話通訳として活動する場合は、都道府県や市の登録手話通訳者となる必要があり、登録条件に「統一試験合格者、手話通訳士」
とありますので、まずその試験を突破する必要があります。
登録後は
登録後は、必要の都度依頼を受けることになりますので、、技術レベルにもよりますが、一ヶ月間の収入は1〜2万程度の人が多い
ようです。当てにならない収入を期待しないで、決ま額が貰えるお店のパートで働く方が多く、なかなか通訳可能者が増えません。
愛知県では、時給1500円の場所が多く、単純に言えば午前中1時間の労働で1500円。運良く、午後2時間の通訳依頼があって、やっと
合計で4500円となります。それもいつ依頼があるのかわかりません。はっきり言って収入は多くありません。
これでも、時間400円で、半分奉仕と言われた時代よりはましになりました。単金も自治体によって異なっているのも問題です。
先日もB市で往復2時間、通訳30分の通訳がありましたが、2時間半使って1600円ですから、1時間当たり500円チョットの計算になります。
愛知県は昔から単金の安い県となっており、お隣の静岡県は1時間3180円となってます。
これも、団体の交渉力によるところが大きく、自治体と粘り強い交渉を重ねた所は高くなっています。
損得でなく
現状では、損得を考えずに「やりがい」を価値として考えるのであれば、大変感動的な仕事でもあると思います。
手話通訳者は、「人間の誕生から死まで」に立会いますので、精神的に弱い方ではしんどいと思います。繊細でなおかつ気が効き、ろうあ
者の問題を共に考えて行こうとする姿勢を持つ人が向いていると思います。
このような仕事の方は
市役所職員、看護師、保育士、薬剤師できれば医師、学校の先生に学んでいただければ、聞こえない方の暮らしはずーと楽になると思い
ます。手話通訳者にならなくても、ろうあ者を理解してもらえるだけでも。