このページは絵本「大鳥居の物語」(仮題)の創作原稿案です。

  仮題

    海軍工廠の爆撃で傷を負った

     大鳥居の物語

 最初に説明文を付けます。
 鳥居の建立された天保時代の説明です。

 天保の大飢饉  加茂一揆  岡崎藩から鎮圧部隊 部隊指揮者は鳥居の神祇和歌作者の都筑大成
 鳥居寄進者の長尾応次郎興達は田原藩で行われた砲術勉強で豊川を通過していた。
 (砥鹿神社神主草鹿砥さんとは国学を通じ親交があり、砥鹿神社や豊川稲荷を崇敬したいた。)

 飢饉と一揆鎮魂を神に願うために建立?!

1P 絵 「天保の大飢饉」
   天保3年〜天保7年
2P 「加茂一揆」勃発
   天保7年
3P 鳥居建立前の市田追分を新城道から長尾応次郎興達が砥鹿神社を目指す。
   天保7年
   絵「姫街道からの桜並木と霊峰本宮山の景色」

4P 絵「砥鹿神社で国学者仲間、草鹿砥さんとの再会、鎮魂の相談」
   天保7年
   絵「長尾応次郎興達鳥居の石材奉納案を出す。 草鹿砥さん喜ぶ」

5P 絵「草鹿砥さん東三河の名士を招集・・手紙を書く所」
   天保7年
   絵「集めて相談(石柱の名士の顔)喜ぶ顔、協力意思表示」

   ※建設資金はわからないので・・お金については語らない

6P 絵「加茂一揆の加担者赤坂で取り調べ、獄死、唐丸篭(罪人運送用篭)で江戸送り」
   天保8年
7P 絵「岡崎で石材完成」船で小坂井へ
   天保12年
8P 絵「小坂井で総出で船を迎える」
   天保13年
9P 絵「総出で楽しく運搬」
   天保13年
10P 絵「地撞き祭」
   天保13年
11P 絵「鳥居完成」みんな喜ぶ
   天保13年
12P 絵「満開の桜並木の前の大鳥居、後ろは本宮山」 2Pの絵に鳥居を加える
   天保13年
13P 鳥居の写真 神祇和歌 「大宮の 石の御門の 二柱 建つる願は 神ぞ受くらむ」 都筑大成作  
            訳(案) 「本宮山(砥鹿神社奥宮)遥拝所の この大きな鳥居は 私たちの願いを 受けてくれます」
14P 豊川稲荷拝殿前の大鳥居の説明
    嘉永6年に建立されたこの鳥居にも長尾応次郎興達の名前が「取持」として彫られている。 

15P まとめ(説明文)

 ご意見は?
 

2019.7.20 一案作成 by 野村
2019.10.17 補正&追加  

2019.11.10 (一人称案)
 これはワシ(石鳥居)の物語じゃ
 みんなは知っておったか?
 姫街道にワシ(大鳥居)ドーンと鎮座しておったことを
 ワシは100年もの長い間、村の衆や旅人を見守って
 おったのじゃ
 しかし、戦争と言うものは恐ろしいもんだ
 どデカイ爆弾とか空を飛ぶ大きなトンボで
 ワシ傷だらけにされた
 ワシの大事な貫が落ちて
 両足は傷だらけになった
 眼前の常夜灯クンは爆弾とかでバラバラにされてしもうた
 ワシはなんとか爆弾とかに持ち堪え
 傷だらけの身で立っておった
 傷だらけの身で街道を行き交う人を眺めておった
 そんな姿が可愛そうに思ったのか
 ワシはバラバラにされて
 砥鹿神社つーー所に運ばれて
 傷を治され西鳥居となった
 やっと安住の地に辿り着いた
 しかし
 みーんなワシの生い立ちも
 なーんでココ(姫街道)へ来ることになったのか
 なんてなーんにも知らん
 砥鹿神社の西鳥居となって
 60年もの歳月が流れてしまった
 姫街道のワシの雄姿を知る者ほとんどおらん
 ワシは語りたいのじゃ


 天保の時代にみんなのみんなのみんなの願いを一身に受け
 姫街道の市田村一里山に本宮山遥拝所の鳥居として
 建立されたことを
 
 最近、海軍工廠跡地に平和公園が開園したことにより、工廠の周辺遺跡も見直されるように
 なりました。
 
 
 私は豊川海軍工廠の爆撃時で負傷してしてしまいました。数奇な物語を